二見神社について(本務社 宮司 串山謹司)・・・(8代目)
二見神社 八代市二見本町字下里695番地 鎮座
1.沿 革 (現在約五百二十年程経ているものと思われます。)
御創立の年代は不詳ですが現在の御神殿が紀元二千百六十一年 第百三代柏原天皇の御代文亀元年辛酉仲冬十一日に当地に在った薗田城の城主 薗田大和守が
築造せられ九州鎮護の神 肥後一の宮の御分霊を主祭神として勧請奉斎され御社号を阿蘇宮と改称し祭祀田二反余畝歩を寄せられ御社頭の弥栄 城下住民の生活
安定 治政安泰の念願を以って氏神として崇敬された御社であります。
2.御祭神
(阿蘇宮)
健磐龍命 (たけいわたつのみこと) 阿蘇比咩命 (あそつひめのみこと)
國 龍 命 (くにたつのみこと) 比咩御子 (ひめみこのかみ)
彦御子神 (ひこみこのかみ) 若比咩神 (わかひめのかみ)
新御子神 (にいみこのかみ) 新比咩神 (にいひめのかみ)
若 彦 神 (わかひこのかみ) 弥比咩神 (やひめのかみ)
速瓶玉命 (はやみかだまのみこと)→国造之神 (くににみやつこのかみ)
金 凝 神 (かなこりのかみ) →第二代天皇
3.相殿の神
天満宮 (菅原道實公)(二見本町字楠平の地より明治四十二年十月九日当社に合祀遷宮される。)
諏訪宮 (健御名方富命・八坂入姫命)
星の宮 (天之御中主神)・・妙見宮
4.祭 礼
例祭(春季祭)・・・(新暦)四月二十五日 (神事のあと願の相撲)
例祭(秋季祭)・・・(新暦)十月十一日 初日祭(神事のあと願の相撲)
十月十二日 二日祭(神事のあと奉納余興)
下大野神社について(兼務社)
下大野神社 八代市二見下大野町諏訪脇2411番地 鎮座
1.沿 革 (現在約三百九十年程経ているものと思われます。)
諏訪宮及び萩尾神社(星の宮)両宮共に御創建の年代は定かではありませんが御社殿御再建について古記によりますと皇紀二千二百九十一年第百九代明正女帝の
御代寛永八年に再建され萬延二年三月長年の風雪に損傷甚だしく改修に当たり時の庄屋蓑田栄藏氏に不思議にも元日に御神示があり同氏恐く感激され早速御再建
に着手茅葺き屋根を瓦葺きとして新築されたとあります。
2.御祭神 (明治四十二年官制指達により合祀・・・諏訪宮と萩尾神社)
(諏訪宮)
健御名方富神 (たけみなかたどみのかみ)
八坂入姫神 (やさかいりひめのかみ)
(萩尾神社)・・星の宮(俗称妙見宮)
天之御中主神 (あめのみなかぬしのかみ)
3.祭 礼
宮籠祭・・・・・・(旧暦)六月十五日
大祭(夏季祭)・・(旧暦)七月二十日 小屋掛
七月二十五日 御しめ卸神事
七月二十六日 前夜祭(夜通しで朝方まで)
七月二十七日 本座祭(御鎮座祭直会の儀式)
例祭(秋季祭)・・(新暦)十月十五日 神事のあと願の相撲
十月十六日 神事のあと余興
下大野神社の夏季祭の始まり由縁について
夏 季 祭 (特 殊 神 事)
祭典の期日は前記の通りですがこのお祭りの起こりは 今より遡ること約390年前御祭神(諏訪宮)が何かで九州地方を巡行された時に現在の芦北町井牟田の海岸
にお着きになり山道(井牟田道)を徒歩で超えて来られ現在二見に在る かんね迫荘の場所(昔ブキャンダンと呼ばれる)に着かれそこで当時の有志の方々(16人
組)でお迎えし直会が行われたのが始まりと言われています。因みに(俗称)酒飲み祭りといわれるのは本座祭の式の中で御鎮座直会の儀式があり上の座より順次
下位の座(相伴役)まで往復左右に別れ.神様のお膳にしか供えてない杯をお流れ頂戴ということで(全11回・相伴役22回)受けることから言われるようになったと思われます。昔は拝殿の外に助っ人という人達がいたそうです。
下記広告は無断で掲載しているもので当神社とは一切係わりのないものです。